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狩野英孝は騙された被害者なのに加害者の女子高生が謝罪に出てこないという違和感

狩野英孝が17歳の女子高生との淫行疑惑が話題になっている。18歳の女子高生ではなく18歳未満の女子高生に手を出したなら青少年健全育成条例的にはアウトなわけだが、今回の件は少し事情が違う。

 

話によるとこの女は当初「自分は22歳である」と自己紹介していた。それが事実だとすれば狩野英孝はなんら落ち度はなく、一方的に被害者と言っていい立場だ。ちょっと化粧をすれば10代後半〜20代くらいの女なんて見分けはつかない。ましてや本人が22歳と偽っていればそれを騙されてもしかたないだろう。

 

それでも出会った男女は「身分証を提示し年齢確認を行うのが常識だよ!」と異を唱えるやつがいるなら相手を連れてきて再現してほしい。

 

今回の件は狩野英孝側に割と同情的な雰囲気もあるので板尾やそのまんま東のように割とすぐ復帰するパターンだと思う。問題はなぜ一方的に善意でなんら過失がない狩野英孝にも落ち度があるというムードが漂っているのかだ。

 

狩野英孝側にも落ち度があるような口ぶりが多いが、そもそもその落ち度というものが見当たらないのだ。ファンに手を出したという点はただの出会いの形の一種に過ぎず、そもそも年齢詐称とは無関係だ。もし事件だとするなら被害者がいるはずだが、間違いなく女子高生は被害者ではない。むしろ狩野英孝こそ被害者であり女子高生こそ加害者だ。

 

だがメディアによっては女子高生を「被害者側」というわけのわからない表現をしているものすらある。積極的に詐称する意図を持って嘘をつき騙したものを被害者とは片腹痛い。この馬鹿女こそ社会的制裁を受けるべきだ。

 

狩野英孝は女子高生の親のもとに謝罪にいったらしい。親も「うちの娘が迷惑をかけて申し訳ない」と互いに謝罪する形になったらしいが、そもそもなんで親が謝罪に行かずに狩野英孝が頭を下げに出向かなければならない?しかも女子高生は「何があっても狩野さんのことは応援します」と抜かしたそうだ。なんだこいつ?神経逆なでするプロか?

 

親子揃ってどこかズレている。もし自分が親なら我が子が迷惑をかけておいて被害者に出向かせるなどという失礼な真似はしないだろう。

 

今回の件が騒ぎになったせいでいったいどれほどに期間謹慎することになるのだろう?何本の番組を降り、CMを失い、掴みかけていたチャンスを棒に降る羽目になったのだろう?

 

狩野英孝に与えた損害を女子高生と親は何をしてでも埋め合わせするべきだ。女子高生は学校をやめて浮いた学費を支払い18歳になったら体を売るなりAVに出るなりして払うべきだし、親は家を売るなり車を売るなりして金を支払うべきだ。もしそれをせずにのうのうと今まで通りの暮らしを続けるなら神経を疑わざる負えない。

 

一般的に18歳以上の男性と女子高生が問題になったら女子高生が被害者であるという構図に当てはめてしまう風潮がある。実際に悪いのが誰か?で判断されるのではなく「構図の力」が正しくない場合にでも働いてしまうことがある。

 

今回の一件もそういった「構図の力」が働いているパターンだ。口にしづらい正論より口にしやすい暴論の方が強い。

 

狩野英孝が一日も早く戻ってくる事を期待したい。

女叩きという言葉で都合の悪い指摘から目を逸らす人間が幼稚な理由

もっともな批判や指摘を誹謗中傷や理不尽な攻撃として受け止めている限りいつまでも問題は解決されない。叩かれる原因を見るのではなく叩く側の意識や態度の問題にすり替える限り同じ過ちや間違った考え方を持ち続けるだけだ。それはただの逃げであり成長のチャンスを棒にふる事にしかならない。

 

女叩きという言葉の問題はそうした点にある。

 

もし内容が間違っているのであれば内容の間違いを批判すればいい。女叩きなどという言葉を使うまでもなく、そもそも指摘の内容自体が間違っている事を示せばそれで済む話だ。そしてもし内容が正しいならそれは女叩きではなく指導であり女性教育である。素直に受け入れ自分を振り返ればいい。

 

だが女叩きという言葉を使ってそのばしのぎ的に批判をかわそうとする者が一定数いる。ではなぜ「女叩き」という言葉が必要なのか?答えは簡単で相手に対して間違っていると言い切れないからだ、反論も反証もできないからだ。

 

男ならもし批判されても批判には批判で答えればいい、矛盾を指摘しお前こそ間違っていると叩き返せばいいと考える。それが言論であり表現というものだ。

 

だが女叩きという言葉を使う人はそれをしない。まるで手紙が入っている封筒ごと破り捨てるように、女叩きの内容自体と向き合うこともせず女叩きであると外側から攻撃するのだ。そこには言葉も意見もない、ただ嫌なものだから受け入れないという幼稚さだけがある。

 

女叩きという言葉で批判から逃げる女は自らの手で女叩きは正しいと証明しているのだ。

30歳以上なのに自分がおばさんだという事実を受け入れられない女達

何歳からがおばさんなのか?この答えは人によって様々だが、一般的な価値観からすると「30歳以上がおばさん」という定義で正しいだろう。

 

30歳を過ぎた頃から体力が衰え始め、いくら本人が女子を名乗ろうとも加齢臭が耳の裏から漂い始める事実は消せない。一般的な中年の入り口は何歳からか?という問の答えも30歳と答えるのが普通なので、中年の女=おばさんなのだから中年基準で判断しても30歳の女はおばさんだ。

 

もっとも人によっては厳しいおばさんの基準やゆるやかなおばさんの基準を持っている人もいる。厳しい基準であれば25歳以上から、ゆるやかな基準なら35歳以上からとなるだろう。もちろんゆるやかな基準を用いたがるのはアラサーの女が多い。(27・28歳の女はアラサーであることすら拒絶する者がいる)

 

男性は自分のことを「ああ、おっさんだなあ」と素直に受け入れるのに対し、女はなぜあんなにも必死におばさんであることを拒絶するのだろうか?30歳までの美人ボーナスが誰にでもあるわけではないのに。

 

そして何より不思議なのは、自分がおばさんであることは認めようとしないにも関わらず、当事者たちは自分が若い頃は30歳はおばさんどころか25歳以上はおばさんなどと平気で厳しい基準を作っていくところだ。おばさんの基準年齢を低くしておくほど後に自分のクビを締めるというのに、低くして堂々と受け入れるでもなく高く基準を設けて遠ざけるのでもなく、低く設けてそれを自分たちで拒絶するのだ。理性的判断の苦手な女性ホルモン優位の女脳と関係があるのだろうか?

 

女子高生くらいの子たちは大学卒業した女はおばさんというような会話をしているのを聞いたことがある。「女は19歳まで、20過ぎたらババアだから今のうちにおしゃれしたい」というような話も耳にする。

 

なぜ女は数年後に自分で設けたおばさん基準の年齢を撤回しようとするのだろうか?たとえ嫌でも現実から逃げずに加齢臭と向き合い三十路、アラサー、中年という現実を受け入れておばさんとして生きていけば良いではないか。

 

おばさんはもちろん若い女の子と比べれば性的価値は低くなるが、そんなもの20代後半くらいから既に低下は始まっている。肌の曲がり角は価値の曲がり角だ、違うのなら必死にシワ消しクリームなり塗りたくるはずがない。本人たちが一番最初に気づいている事のはずだ。

 

もしかするとだが、彼女たちは自分で自分をおばさんと認めさえしなければ女性としての魅力が低くならないとでも思っているのかも知れない。女の子なら笑顔を振りまいて優しくしてもらえるが、おばさんが笑ってもただの愛想のいいおばさんだ。しかし自分を女の子だと思って笑顔を振りまいているおばさんの方がよっぽど恥ずかしいではないか。女の子のふりをおばさんがしても笑った後のほうれい線の跡はすぐには消えない。

 

おばさんになったなら中年としての大人らしい魅力を振りまけばいいのに、女の子であり続けようとする姿がはっきり言って気持ち悪い。

 

笑うなと言っているのではない、魅力に頼るなと言っているのでもない、おばさんであることを自覚しろと言っているのだ。

 

年齢相応の自己認識を持っていれば立ち振舞はそこまでおかしくならない。自覚さえ持っていれば若々しく可愛らしく振る舞おうとした時も年齢的に許される範囲内での振る舞いに自然となるので「30過ぎたおばさんなのになにこいつ?」と不快な思いをさせずに済むし恥もかかずに済むのだ。

 

30歳以上の女に若さという価値は既に無い、そして魅力も既に下がっている、だが相応の態度でいればそれなりに扱ってもらえる。

 

身の程をわきまえる人はわきまえない人より魅力的だ、今おばさんになったあなたはまだおばさんになれていない女よりも頭ひとつ抜きん出たのだ。美人ボーナスの残りカスすら棒に振ってしまう前に早く相応の態度を身に付けよう。

 

体が30歳のおばさんなのに精神年齢だけ20代なんて恥ずかしすぎるし、自分で魅力的と考えていても評価は覆るわけでもない。現実から逃げるな、とアドバイスしたい。

非処女なのに結婚式で白無垢を着る馬鹿女に限って藤原紀香を叩くのはなぜか?

藤原紀香の結婚報道に対し、再婚にも関わらず結婚式で白無垢を着た事を指摘する声が多く上がった。白無垢は汚れていない事を象徴する装いであり、再婚時には白無垢以外を着るものだという考えがあるらしい。

 

なるほど、確かにそうだとすれば白無垢を着るのは間違っている。再婚で白無垢を着るのはおかしいかも知れない。だがこの意見はひとつ問題がある。それは汚れていないか?を再婚か否かを判断の基準にしている点だ。

 

白無垢は上でも説明したように汚れていない=純真・潔白=処女を示すものだ。つまり初婚であっても婚前性交経験者の女性、つまり非処女の女性は白無垢を着る権利がない。

 

だが実際はどうだろう?まるで「初婚ならわたしでも着てもいいよね?」というような文化や儀礼的装いを軽視して自分本位な考え方を持っている女が多いのではないだろうか。

 

実際藤原紀香をこの白無垢事件で叩いている女性の内、一体何%が処女のまま結婚式したのだろうか?一体何%の女性が処女のまま結婚するだろうか?

 

もちろん非処女の場合は白無垢を着る権利(道徳的な)が無いという事を理解して白無垢以外を着て結婚式を挙げる女性は問題ない、堂々と叩くといい。だがそうでないにも叩いていた女は一体なぜ自分の矛盾に気づかないのだろうか?おそらく女性にありがちな他罰傾向と自己批判能力の欠如を制御するだけの理性がないということなのだろう。

 

これは一部の目覚めた女性=男性同様に理性を身につけた女性であればこのような間違いは犯さないことからも読み取れる。白無垢を着る権利がない事を理解してい着ないか、逆に白無垢と着るために自分を律するかだ。

 

だが目覚めていない方の女はその理性の欠如故に、自分の権利の有無すら考えずに攻撃する。そして当たり前のような顔をして白無垢を結婚式着るのだ。中には妊娠中で白無垢を着るという意味不明な(本当に白無垢の意味を理解していないのだろう、頭にあるのはシロイ!カワイイ!キレイ!だけだ)行為に出る女もいるだろう。そんな人間にまともな子育てができるのだろうか?はなはだ疑問だ。

 

おそらく男は婚約者が白無垢を着ようとしても、笑って許すか肩を落として諦めるしか無いのだろう。相手と同レベルの場合は疑問をそもそも持たない可能性もあるが。なかには「婚約者が処女じゃないのに白無垢を着ると言い出して困っています」という相談を寄せる男性もいるかも知れない。だがどちみち結婚式は文化でも男性でもなく、女の都合を主体に行われるものだ、本人が違和感や恥を感じない以上どうしようもないのだろう。

 

再婚で白無垢はおかしいがそれ以上に非処女で白無垢もおかしい、なぜなら白無垢を着ても性交経験がなければ再婚でも着る権利が与えられるが、非処女の場合は例外なく白無垢を着る権利はないのだ。むしろ自分たちこそ間違っているという認識を持つべきだ。

 

世の中は広い。以前新宿の喫茶店で話の内容からして風俗嬢らしきふたり組が「ウエディングドレスは白がいい」と話していたのを目にした。風俗嬢なのに白無垢を着たがるとは・・・とあっけに取られた記憶がある。そんなに着たいならなんで風俗店で働いているのか?と疑問だったが、今考えてみればどちみちほとんどの場合は着る権利なんて無いのだから目くじらをたてる必要もなかったのかも知れない。

 

白無垢は既にただ「シロイ!カワイイ!キレイ!」なだけの服になっているのだから。

ペコ&りゅうちぇるのネタ・キャラパクリ開き直り事件から考える中国文化

沖縄といえばかつては琉球と言われ、かつては中国と深い関係はあっただけあり食べ物や建築物などにも中国に近い文化が今なお根強く残っている。

 

さて沖縄と言えば芸能界に数多くのタレント・役者・モデルを排出していることで有名だが、その中でも今最もアツいのは誰か?といえば「りゅうちぇる」である。

 

ヘビーな原宿系女子をそのまま性転換させたようなルックスで、一度見ればその強いインパクトで目に焼きつきなかなk忘れることはない。あれだけのインパクトがあるのだから視聴者に覚えてもらうことが大切な芸能界で一気に露出が増えたことも不思議ではない。

 

さてこのりゅうちぇるだが、彼の攻撃的な態度がヤフーのトピックで取り上げられていた。それはある番組中の出来事だ、ペコ&りゅうちぇるのネタがあるモデルのネタととても類似しており、先にそのネタをしていたモデルに指摘された。それに対しりゅうちぇるは「パクリではない」と主張しつつ「文句をつけるのは自分が売れなくなる事を恐れているため」と逆に相手を攻撃し始めたのだ。

 

はっきりいってペコ&りゅうちぇるのネタはそのモデルのものと類似しており、キャラクターも疑いをかけられてもおかしくない程度に類似している。テレビなどでの活動時期もそのモデルのほうが早い。完璧な言い逃れをすることは難しいだろう。それくらい似ているのだ。

 

仮に偶然似てしまったとしても、もし普通の人がりゅうちぇると同じ立場なら「後から似たような方法で売れましたがよろしゅう頼みます」という態度を取りそうなものだ。だが彼らは違う、パクったという事を否定するのみならず相手を貶めてその場をしのごうとする。

 

私はこのトピックを見てあることを思い出した。中国のコピー製品だ。

 

中国では世界の有名企業が築き上げた製品をパクリ、あるいはコンセプトやデザイン・機能を一部だけ変え「パクリではないオリジナルである」と主張する文化がある。これは中国では優秀な者とは無駄な努力をせず上手にパクる者だという思想があるからだ。

 

勝手に商標をとったりパクリ元の企業を罵ったりすることはもはやニュースでは見慣れた光景だ。

 

さてそんな中国だが、沖縄はかつて琉球だったころ中国の属国でもあった。すでに日本の一部となり人も文化も日本と溶け込んでいるが、一部にはまだ根強く手付かずの部分が残り続けている。中国が強くのこり続けている。

 

沖縄出身タレント全員がそうだとは思わないが、コンテンツはパクりやすい。単純なネタであれば一部を変えれば再利用することは簡単だ、ヤる奴はヤるだろう。中国でコピー製品を作る者達と同じように。

 

今回のりゅうちぇるの一件で本当にパクリだったのかどうかはわからないが、もしパクリであっても認めることはおそらく無いだろう。

 

だがもしパクっていたのだとしたら、深く沖縄に残る中国のパクリ・逆ギレという文化的DNAは何世代たてば浄化されるのだろうか?それとも消え失せることはなく逆にこれも立派な文化であり文化への差別だ!と言い張るのだろうか?

 

沖縄では成人式で暴れる未熟な成人達が毎年のように現れるが、りゅうちぇるも21歳、1つ年上だ。成人式での振る舞いがどうだったかは知らないが、暴力は態度や言葉の中にも潜む。もし先に似たようなキャラ・ネタの人がいたのならもしパクリでないならそれこそ「あなたがこのキャラクターで売るという道を開いてくださいました」「あなたが切り開いてくれたこの道です」とある程度の敬意を払うのが成人として日本人としての持つべき礼儀(reigi)だ。

 

私は彼らのことが好きでも嫌いでもないし、差別感情も一切持っていない。だができればもう少し成長した姿を見せてくれたらと思う。

先にフッたほうが勝ち、嫌悪感を示す方が勝ちという女独特の思考について

彼女達には対人関係において個人個人の上下を決める謎のルールがある。そのルールとは先に相手を拒絶したほうが勝ちというものだ。例えば恋愛であれば振られる前に振ったほうが勝ち、そこまででも無い関係でも嫌悪感を示したほうが勝ち、さらには先に恋愛対象外宣言をしたほうが勝ちという謎のマウンティングポリシーがある。

 

先に相手を拒絶したものは相手より価値ある存在であり、拒絶された方は相手にされない価値の劣る存在とみなされる。

 

女達は一部を覗いてこの西部劇のような世界に生きている。彼女たちはガンマンだ、拒絶の意思を先に発したものだけが生き残る。

 

…男性諸君なら女性の感情的な側面や幼稚な反応にうんざりして叱り飛ばしたくなったことがあると思う。だが男性諸君は優しいので男女差別には反対なはずだ。平等に扱ってあげようという、しっかり価値を認めてあげよう、見下さずにあげようという優しさを持っているはずだ。

 

たとえ知能の男女差を認めない結論有りきのジェンダー論や女性学によって女性が保護されていることに気づいていても気づかないふりをしている。

 

その前提にはたとえ男女差があろうとも「話せばわかる」「対話が困難なほどの優劣の差は無い」「コミュニケーションや教育で女性も成長できる」という”乗り越えられる程度の差”という認識がある。

 

だが、実際には想像以上に男女の差は開いているとしたら?体力のみならず知能や精神的成長度でも到底埋めがたい隙間があるとしたら?

 

…話を戻す。初めて女性特有の先に拒絶したほうが勝ちという謎ルールに気づいた時には「え?嘘だろ?」「こんなアホな考えいい歳して持ってる奴いるの?」「いくら何でもこんな考えの女はこいつだけだろ?」と信じられなかった。だが実際には違う、ありとあらゆるところでこのような価値観は見られる。

 

ネットでも電車内でも喫茶店でも、時には愚痴として第三者に、時には直接相手自身に「フラれたら悔しいから先にフッた」「今はもう興味ないから」「絶対無理〜」などとあえて言って見せているように、これは一部の女が特別なのではないのだ。

 

基本的に現代の男は平等の精神を大切にしているので女性を見下さず対等に扱って来たが、それは能力的にもおおよそ対等であるという前提があるからだ。だがこのような幼稚な考えをするものが大多数だとしたらどうすれば良いのだろうか?女性を啓蒙し本当の平等を実現する事は可能なのだろうか?

 

もしこれが教育で挽回可能な程度の差なのであれば希望を捨てる必要はない、だがもし脳のスペックで決まっている決定的な差だとしたらどうすればよいのだろうか。一部の優秀な女性だけ対等に扱えばよいのだろうか?いや、そもそも優秀な女性がいたとしても外見的な学歴・職歴・経歴だけで内面的な部分が伴っているとどう判断できるのだろうか?優秀な者が集まっているはずの会社の中でも早打ち拒絶マウンティング合戦は行われることすらあるのだ。

 

きっと彼女たち自身が自身の力で追いつき追い越そうと努力し、特有の浅はかさを捨て去る時が来るまで辛抱強く耐えるしかないのだろう。良い方法は何も思い浮かばない、結論有りきのジェンダー論で形だけ整えても中身まではついてこなかった。今、男にはある種の割り切った考えを持つ必要に迫られているのかも知れない。

ほとんどの専業主婦は職業ではなくただの無職だと断言できるシンプルな一つの理由

飲食店店員も清掃業者もクリーニング屋も、サービスを生業とするものなら接客態度というものを常に意識する。

 

プロは客の前で嫌そうな顔はしないし丁寧な態度を心がける。面倒くさいからと手を抜いて品質を落としたりしない。客に自分の不平不満をぶつけるなどありえない

 

もし客の前で自分の感情一つコントロールできず、丁寧に対応できないのならサービス業は向いていない、さっさと転職するべきだ。

 

さて、では本題に入るが専業主婦は職業と言えるだろうか?人によって答えは異なるが、もし仮に専業主婦が職業であるとするなら、専業主婦はサービス業だろうか?もちろん専業主婦は第一次産業にも第二次産業にも該当しない、第三次産業の中でもサービス業に該当すると考えるのが適切だろう。

 

もちろん中にはプロ意識の高い専業主婦はいるだろう。またパートをしているものは職業パートであって専業主婦ではない。

 

残るパートもせずサービス業であるにも関わらずプロとして当然の態度をとることのできない大部分の自称専業主婦たちは、事実上(意識上は違うだろうが)ただの無職の家事手伝いだ。

 

彼女たちが嫁という立場を利用して単に家事をして家に置いてもらってぷらぷらしているだけの無職のおばさんだという自覚を持つ日は来るのだろうか?